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医王山城本丸(主郭)
 
土塁や石垣虎口が残り
瓦片が残されている
 医王山城とは

南北朝以前の築城と伝えられ
1441年嘉吉の乱で活躍した山名氏は
山名忠重を医王山城に配置した
1532年出雲の尼子氏が美作に侵攻し
医王山城は尼子氏の属城となった
その後、備前、美作東部に勢力を誇った浦上氏が
医王山城に兵を入れていたが
1544年尼子晴久は精鋭新宮党らに命じ
5千の兵で美作に再び侵攻し、
小田草城、岩屋城、高田城と
この医王山城を陥落させた。
時代は下り1566年尼子氏は
安芸の毛利氏により月山冨田城を落とされ滅亡
美作の国は毛利氏と宇喜多氏の抗争の地となる
医王山城は毛利氏に属し
湯原晴綱が城主として入る
1580年宇喜多勢が医王山城を攻撃、
湯原晴綱は宇喜多勢の猛攻を受けるも
医王山城を死守し宇喜多勢は撤退、
1582年羽柴氏と毛利氏の和議で
美作の国は宇喜多氏の領有となり
退城を勧告されるも
毛利氏に従った国人諸氏は拒絶し
医王山城にも籠城したが
毛利輝元の説得により開城、
医王山城は宇喜多氏が領有し改修されたが
やがて廃城となった
        
 訪城紀行

宇喜多氏が猛攻をかけるも
ついには落とすことができなかった医王山城は
津山市吉見の岩尾寺背後の
険峻な山上に所在する
山麓の岩尾寺より歩きやすい登城道が
山上医王山城まで続いている
途中観音堂のある郭を経て
山上本丸まで20分の道のりである
医王山城は南北の尾根上に郭を配置した縄張りで
北尾根に本丸、南の尾根には三の丸が築かれ
本丸、三の丸間は二の丸らの長方形の郭で
連絡されている
本丸に残る石垣虎口は美作では珍しく
瓦片なども残っているところから
瓦を利用した建築物も建てられていたと
考えられている

 

山上尾根筋の遺構

本丸
石垣虎口や瓦片が散在し櫓などの
建造物が建てられていたと考えら
背後は三重の堀切で守られる


二の丸
本丸と三の丸を連結した郭で細長く
長方形の形をなしている


三の丸
本丸の南方の尾根に位置し土塁と石列跡が残る

三の丸以南の腰郭と畝状竪堀

南に向け腰郭と畝状竪堀が残るが藪化しており
現在は視認が困難である
  
 アクセス方法

国道53号線を津山IC方面から北上すると
やがて県道6号線へと合流しさらに北上し
加茂川を渡ると左手が美作滝尾駅となる
そこから少し北上すると(ルート図参照)左手に
左折する道がありそちらに進み再度加茂川を渡り
山麓の岩尾寺へ向かいます
岩尾寺から登城道が続いています

 
クリックで見やすい地図を表示
医王山城 登城ルート図

城域     登城ルート

国土地理院数値地図25000(宮田)引用 作図

所在地 岡山県津山市吉見 
形式 山城
現状  山林
築城年代  南北朝以前
遺構  郭、土塁、石垣、等
主な城主 湯原春綱 
見所 虎口石垣、郭
 おすすめ度 ★★★ 
 登城道整備  
 主郭まで  登城口より25分
 登城難易度  
 駐車場 専用駐車場有 
訪城日 2010年2月21日 

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1〜5
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上記 データの 説明

 

本丸の石垣虎口

見事な石垣虎口が残る

本丸の石垣跡

崩れてしまっているが当時は
石垣が組まれていたと思われる

二の丸(二の郭)
 
尾根筋を利用した
細長い郭である
 

屋根上の郭

二の丸と共に三の丸への
連結を目的とした郭である

三の丸(三の郭)
 
本丸の南方に位置する 

三の丸土塁

三の丸には土塁が形成される
三の丸の石列跡
石列が残り建造物が
建てられていたと考えられる


登城口

岩尾寺脇に登城口がある

 

登城道
登城道は歩きやすい
 
山麓よりの遠望
険峻な山上に所在し
宇喜多勢も攻めあぐねた