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鐘搗堂
弥生時代の古墳でもあった 
 長谷高山城史

別名 尼ヶ城とも呼ばれ、建久4年(1193年)鎌倉幕府より宇野則景が佐用庄の地頭職に任じられ土着し、築いたと伝えられる。
則景の息子・家範は、庄内赤松村を苗字として、赤松氏を興した。
戦国期、天正5年(1577年)に尼子勝久がこの城に籠ったと地誌『佐用郡史』は記しており、「尼ヶ城」の名の由来となっいる。



長谷高山城の縄張り 

中国自動車の高架下をくぐると、害獣防止柵が見える。
開閉し内部に入ると、車を停めれる大きなスペースがあり、登山道がつけられている。
尾根筋に到達すると、鐘搗堂と呼ばれる削平地と土橋付の堀切がある。
当城北東尾根続きの長谷寺のもので、戦前まで雨乞いの場として使用されていたという。
しかし、堀切が付けられ、城郭遺構であることから、元は長谷高山城の出郭として存在したものであろう。
なお、この場所は発掘調査により弥生時代の墳墓であったことが判明している。
さらに山上に向かい登山道を登ると、南西尾根郭群の腰郭が見えてくるが、切岸は低い。
当城の主要部は、山の地形に合わせたY字状に縄張りが展開する。
その中央部が主郭で方形状を呈しており、千畳敷とも呼ばれる。
主郭の北西尾根の郭群と南西尾根郭群の間は、谷筋となっている。
谷筋にも帯郭が付けられており、所々に石積みが見られる。
谷筋という性格上、雨水が流れ崩落しやすいため土留として用いられたのであろう。
石積みは低く、小ぶりな石を積み上げている。
主郭の東側尾根の削平地は、削平が甘く曖昧で、背後の山塊との間を堀切等で遮断していない。
この為、当城は未完の城とも考えられている。


 アクセス方法
上郡方面から、国道373号線を佐用IC方面に向かい、547号線に右折する。
80mほど走ると左手に高架下をくぐるトンネルがある。
その中に入ると、先に害獣防止柵があり、そこを開くと城跡の公園になる
ページ下部に登城口地図記載

所在地 兵庫県佐用郡佐用町横坂
形式 山城
現状 山林
築城年代  鎌倉時代
遺構  郭、石積み・堀切等
主な城主 宇野則景
見所 石積み
 おすすめ度 ★★★
 登城道整備  有り
 主郭まで  登城口より25分
 登城難易度  3
 駐車場  
訪城日 2009年3月14日

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明      


鐘撞堂先の堀切 
土橋が付けられ二重になっている

南西尾根の腰郭
 切岸は低い
 
主郭 
千畳敷とも呼ばれる
 
北西尾根の郭群
兵の駐屯を意識している
  
帯郭
谷筋には帯郭が造成される
 
石積み
土留めとして石積みがある

石積みの石
小ぶりな石を使っている 
 
東尾根の削平地
削平が甘い