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飯盛山城主郭
 
 飯盛山城史

飯盛山城は南北朝時代に佐々目憲法が築いたと伝えられる。
戦国時代、畠山氏家臣の木沢長政が改修し居城とした。
1531年木沢長政は畠山氏を裏切り細川晴元に寝返った為、二度に渡り飯盛山城を畠山義宣に攻められるが、山科本願寺の協力により畠山義宣を自害に追い込んだ。
1542年木沢長政は河内太平寺の合戦で討死し、安見直正が入るが、やがて三好長慶に攻められ
堺へ敗走し1560年三好長慶が飯盛山城に入城する。
長慶は飯盛山、芥川、高屋を中心に河内国の支配を行った。
三好長慶の没後、三好三人衆が城を統治するが三好三人衆は織田信長に降伏し飯盛山城には畠山氏の遊佐信教が入ったが1573年畠山昭高を遊佐信教が殺害し、それに激怒した織田信長の軍に飯盛山城は攻められ落城し、廃城となった。



 飯盛山城の縄張り

駒飯盛山城は比高300m程の飯盛山山上に築かれており、
山麓より登山する方法と阪和道より車で直接馬場跡の楠公寺まで来る方法もある。
登山に訪れるハイカーも多い。山上尾根伝いに郭を配置し南北に長い縄張りである。
展望台のある主郭、楠正行の銅像がある最高所に高櫓跡、その北方には三好長慶の遺体を
三年間安置したという御体塚丸等の郭が広がり、主郭南方にはNHK中継塔があり城内で最も広い郭のある千畳敷の郭群、楠公寺馬場跡が広がる。



 アクセス方法
登城口位置 ページ下部にマップ添付

所在地 大阪府四条畷市南野
形式 山城
現状  山林
築城年代  戦国期
遺構  土塁、石積、郭、掘切、等
主な城主 三好氏
見所 石垣
 おすすめ度 ★★★
 登城道整備  有り
 主郭まで  楠公寺より主郭まで10分
 登城難易度  3
 駐車場  
訪城日 2012年11月22日

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
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上記 データの 説明      

高櫓跡の切岸

主郭下通路の石垣
 
 
御体塚丸
 

御体塚丸下の石垣
 

堀切