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一ノ壇
 
切岸部分に石垣痕を残す鶴首城の主郭である
広さ 30×37m
 鶴首城史

駒鶴首城は備中国、成羽の鶴首山 山上に位置する。 
南北朝時代に三村家親が築城したと伝えられ、毛利氏に滅ぼされるまで代々三村氏が城主を継承した。
時代は下り、三村家親は宇喜多領内に攻め込み、1566年春には宇喜多氏の諸城を落とし宇喜多直家の居城へも攻め込もうとする勢いであった。
しかし宇喜多直家は備前の遠藤又三郎を用いて興禅寺で軍議中であった三村家親を銃撃させ暗殺した。
三村軍は兵の動揺を防ぐ為に暗殺された当主家親の死を隠し兵を引きしばらくたった後に
当主・家親の死を公表し元親が後を継いだ。
その翌年、三村氏と宇喜多氏は明禅寺合戦で激突し三村氏は敗北し三村氏は衰退し宇喜多氏が勢力を拡大していった。
三村氏は鶴首城を本拠に再び勢力の拡大を図るが、それまで長年に渡り三村氏と同盟関係にあった毛利氏は宇喜多氏と同盟を結んだ。
三村氏は毛利、宇喜多に挟まれる形となったが、そこへ織田信長より誓紙が届き織田氏と組み
毛利、宇喜多と戦うことになった。
この時、元親の叔父 親成は織田氏と組むことに反対し三村領へ毛利方を手引きした。
毛利氏は大軍を率いて三村氏の諸城を攻め落としこの鶴首城も大軍に攻められ落城。
鶴首城を中心に勢力拡大を図った三村元親は備中松山城落城後に自刃した。
鶴首城は三村領への案内をした三村親成が城主となった。
1600年関ヶ原の戦いにおいて毛利氏は西軍に味方し敗北した為、周防、長門に減封された。
鶴首城には岡家俊が入るが、家俊の長男が大坂の陣で豊臣方に味方した為、家俊は切腹を命じられ、1617年に山崎家治が入封した。山崎氏は山麓に居館を構え、鶴首城は廃城となった。



 鶴首城の縄張り


鶴首城は成羽町の成羽美術館裏より登城道が山上まで続いている。
鶴首城の主郭である一ノ檀は野面積みにした石垣を残し30m×37m程の規模があり、その東には
二ノ檀、南西に三ノ檀、となる。
三ノ檀より切岸を利用し南西方向に四の檀、五の檀が築かれ、その奥は堀切で断たれている。
また二ノ檀より西には六ノ檀(付近に溜井跡と思われる痕跡有り)、北東には七ノ檀(馬場跡と記載有り)が残っている。
ここまでが主郭周辺の主要部となり登城道途中には太鼓丸、登城道途中から支脈に入れば二の丸があるがここは鬱蒼とした藪地と化している。
現在 鶴首城は見学しやすく整備もされ登城道もあり戦国期の山城遺構を堪能できるようになっている。



 アクセス方法

総社方面から国道180号線を高梁川に沿って北上し高梁川を渡り国道313号線に入ります
そのまま国道313号線を西に向かうと国道313号線沿いに成羽町美術館があり、その美術館裏の道から鶴首城へ登城道が続いています。
ページ下部に登城口マップ添付

所在地 高梁市成羽町下原
形式 山城
現状  山林
築城年代  戦国期
遺構  畝状空堀、郭、石垣、堀切、溜池 他
主な城主 三村氏
見所 石垣、堀切
 おすすめ度 ★★★★
 登城道整備  有り
 主郭まで  登城口より25分
 登城難易度  3
 駐車場  
訪城日 2008年10月12日

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明      

一の壇 虎口
 
東に向いて開かれている

一ノ壇石垣
 
一ノ檀の切岸部分には野面積みの石垣が残る
 
ニノ壇
 
三ノ檀と共に一ノ檀を囲むよう築かれている

三ノ壇
 
一ノ檀南側に所在し南西に郭を連ねる
 
四の壇
 
三ノ檀の南西に所在し切岸を用いて段状に
連ねている
 
五ノ壇
 
四の壇南西に所在しこちらも北東に切岸を
用いている
 
 
六ノ檀
 
ニノ檀西の切岸下に所在する
 
七ノ檀 
ニノ檀北東に所在し現地は馬場と表記されている
 
堀切
五ノ檀南にあり二重堀切となっている
 
溜井 
溜井と思われる痕跡が六ノ檀近辺にあった
 
太鼓丸 
登城道途中の太鼓丸跡には休憩施設がある