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葛下城・主郭
 
葛下城のほぼ中央に位置する。
 葛下城史

葛下城は築城の年代は不詳であるが、応仁の乱の頃、赤松氏は旧領美作回復戦に及び、美作岩屋城を配下大河原氏に守らせた。この時期に葛下城は築かれたと考えられ、城主にはその一族大河原大膳大夫が配された。
美作は永正10年頃より赤松氏の執事である浦上氏が支配下に置いていた。

尼子氏の美作侵入

出雲の月山富田城を本拠とする尼子経久は浦上氏当主・村宗死後の浦上宗景・政宗の兄弟不和による内紛の混乱に乗じ天文元年(1532年)尼子詮久らを大将に美作に侵攻、一時は美作の大半を制圧するに到った。
しかし天文8年(1540年)には赤松・浦上両氏の反攻や周防の大内氏の石見侵入により尼子氏は出雲に撤退する事となった。出雲より撤退した美作には備前天神山城の浦上宗景が侵入し勢力を広げたが尼子経久の跡を継いだ孫の尼子晴久は天文13年(1541年)叔父の新宮党、尼子国久と宇山久信に5千の兵を預け美作に対し大攻勢を仕掛け、この戦いで葛下城も落城、大河原氏は没落し葛下城は尼子の属城となった。

毛利氏勢力下で拠点城郭に改修
永禄8年頃(1565年)には安芸の毛利氏が美作に勢力を伸ばし始め翌9年には
毛利氏は月山冨田城の尼子氏を攻め滅ぼし葛下城も毛利氏の勢力下に入る。この頃より毛利氏配下の中村頼宗が在城し大規模に毛利氏の拠点城郭として拡張整備を行ったと考えられる。
天正6年毛利氏に組していた備前の宇喜多直家は織田氏家臣、羽柴秀吉の斡旋で版図を隣国・播磨にまでを拡大した織田信長に帰属、宇喜多氏は毛利氏と袂を分かち敵対し美作は毛利、宇喜多の勢力が入り混じる
混戦の舞台となり諸城をめぐる攻防戦が繰り返された。その中でも葛下城は依然、毛利氏勢力下として存在し、天正9年葛下城主、毛利氏配下の中村頼宗は宇喜多方の岩屋城を風雨に乗じ夜襲し攻略、中村頼宗は毛利輝元の命により岩屋城に移り、代わりに浅山図書・桜井越中守らが葛下城の城番となった。

天正の和議と開城への抵抗 そして廃城へ
天正10年(1582年)京・本能寺にて織田信長は明智光秀に殺害され
中国平定を目指す羽柴秀吉は急遽、毛利氏との和議を余儀なくされる
その条件として毛利氏が高梁川以東の地を割譲する事が含まれ(天正の和議)美作の大部分は羽柴方の宇喜多氏へ割譲する事となり。葛下城もその条件下に含まれた。美作の国人衆の中には城の明け渡しに頑強に抵抗する者も多く、岩屋城の中村氏・矢筈城の草刈氏・高田城の楢崎氏・竹山城の新免氏・そして葛下城の浅山氏らは宇喜多氏に対し徹底抗戦し籠城、これに対し羽柴秀吉も城請取の使者として黒田孝高・蜂須賀正勝らを派遣し毛利領との境界決定に力を注いだ。
毛利輝元も天正11年末頃より国人衆らに対し城を明け渡すよう説得を進め、葛下城の浅山氏もやむなく説得に応じたが、城明け渡しの際に浅山図書は城に火を放った上で自らも命を絶ち、焼け落ちた葛下城は再建される事なく廃城となった。

        
訪城紀行 
 

葛下城は津山から伯耆に抜ける街道筋に面す吉井川西岸の大松山(標高370m)の山上一帯に築かれた山城で非常に広大な領域を誇っている。
城の麓までは林道が続きやがて葛下城登山口の標識が見える。ここからは徒歩で葛下城に入る事となる。この整備された登城道は本来の大手道であったと思われ、家臣たちが住まいしていたと思われる数段に連なる比較的小規模の屋敷跡を通過し約20分、切岸を用いこちらも段状に分け築かれた規模の大きな家臣屋敷が現れる。さらに上には官兵衛丸、二の丸、本丸と続き中世城郭の風情を味わえる。この周辺の郭は規模が非常に大きく葛下城全域では東西1kmにも渡り全山要塞化され相当な人員収容能力があった事が見てとれる。これは有力大名(毛利氏)や在地勢力(国人等)と結託し宇喜多氏らと戦った証ではないかと推測され美作における毛利氏に属した拠点城郭の特徴でもある。本丸から西側へ向かうと城主の館跡→岩盤を掘り構築した大堀切となり、その先にも狼煙を上げたと思われる見張り台、尾根筋に沿って築かれた鉄砲郭、段状に郭を築いた朝山壇と続く。毛利と宇喜多が凌ぎを削り最後まで徹底抗戦を続け開城拒否を続けたこの巨大城塞に是非足を運んでいただき、美作の戦国史を体感して頂ければ幸いである。



 アクセス方法

国道179号線小座の交差点から県道82号線の中谷川に架かる橋を渡り
左折すると「葛下城登城口」の標柱がありそれに従い林道を進むとやがて
葛下城登山口との案内がある。

 
クリックで見やすい地図を表示
葛下城 登城ルート図

城域     登城ルート

国土地理院数値地図25000(香々美)引用 作図

所在地 岡山県鏡野町中谷
形式 梯郭式山城
現状  山林
築城年代  南北朝頃
遺構  郭、土塁、掘切、等
主な城主 中村頼宗 
見所 堀切、郭
 おすすめ度 ★★★
 登城道整備  有り
 主郭まで  登城口より30分
 登城難易度  3
 駐車場 登山口付近に駐車場スペース有り
訪城日 2011年4月10日 

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明      

二の丸
 
本丸の西側、長方形の長く広い郭である。

官兵衛丸
 
二の丸直下の郭で居住性に富む郭
 
家臣の屋敷跡
 
大手口から登ると広い家臣の屋敷跡が連なる

城主の館跡

城主の館があったのか、今は雑木に覆われる
 
大堀切

岩盤を切り崩し大堀切としている
この城の岩盤はもろく崩れやすい 。

見張台(狼煙台)

今は雑木が伸び見通しが効かないが当時は
見張台として絶好の位置であったと思われる
狼煙台としても使用か
 
葛下城への林道入口

この林道を進むと駐車スペースと
葛下城への登山口がある。