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小田草城主郭
長方形に近く山上尾根の中央に所在
 小田草城史

有力国人斉藤氏により14世紀に築かれた小田草城
小田草城は野介荘(現・鏡野町馬場)を本拠とした美作の有力国人、斉藤氏の本拠である。
山麓の小田草神社の梵鐘には「貞治7年3月(1364年)小田草城主 斉藤二郎」との刻印があり、
築城の時期は14世紀前半以前に遡る。
斉藤氏 尼子氏に属す
天文年間の頃の斉藤氏当主は斉藤実秀である。天文13年(1544年)美作に出雲の尼子氏が侵入し、
斎藤氏は尼子氏に組する事となった。斎藤氏は弘治年間(1555-1557)まで、尼子氏に属し、現・鏡野町域一帯の土豪や地侍への支配を強化した。
毛利氏に救援を仰ぎ、備中の三村家親と行動を共にする
斉藤氏の発給文書によれば永禄年間初頭に斉藤氏は家督を斉藤実次が継いでいる。
この頃より毛利氏と尼子氏が戦うに到り、尼子氏の美作支配は揺らぎ始める。
美作に備前天神山城の浦上宗景の勢力が侵入すると、斉藤氏をはじめ美作の国人は
安芸の毛利氏に救援を求めた。毛利氏は備中の三村家親に美作への出陣を命じ、
斉藤実次は毛利方の三村家親と行動を共にし、浦上方の勢力を駆逐する。
この時に実次は三村家親より一字賜り名を斉藤親次と改名している。
斉藤氏、宇喜多氏配下の国人へ
永禄8年頃(1565年)には毛利氏に攻められた月山冨田城の尼子氏の使者、平野又右衛門が
小田草城に救援依頼の為に来訪する。毛利氏に与する親実は又右衛門を殺害し、
その首を毛利氏に送っている。備前の浦上氏は美作に再び侵入、斎藤氏は浦上氏に服属した。
永禄12年(1569年)尼子勝久がに再起の戦いを引き起こすと、斉藤氏は尼子方として戦うが敗北。
その後、斉藤氏は宇喜多氏に属し、斉藤親実は名を近実に改めた。
小田草城、毛利氏に占拠されるも、再び斉藤氏、小田草城一帯の領主として復帰
近実は美作で宇喜多氏と毛利氏の交戦が激化するにつれ、宇喜多氏に味方し、
天正10年5月(1582年)小田草城を毛利の軍勢に攻められ、小田草城は落城。
小田草城には毛利氏の岡本大蔵丞が城番として入った。
近実は小田草城落城後も宇喜多の将として各地を転戦し、毛利と宇喜多(羽柴)の
天正の和議(天正10年)で美作が宇喜多領となると、小田草城一帯の所領を回復した。
斎藤氏は、関ヶ原合戦で主家・宇喜多氏が改易となると、山麓、小田草神社の宮司として
存続したと伝わる。 

(渡邊大門氏)「戦国期 美作国における中世領主の特質」等 参考
        
 訪城紀行
鏡野町馬場の小田草神社北側の小田草山(標高390m・比高160m)山上に小田草城は
所在する。現在・鏡野町の史跡として保存、整備が行われ、城主の子孫が宮司を
勤めていたとされる小田草神社奥から快適な登城道が続き約20分で山上主郭まで
到達する事ができる。小田草城は山上の尾根筋を利用した連郭式城郭で城域は
南北300m東西50mの(腰郭を入れると100m)で南北は掘切で遮断しており、
北方の堀切は2重堀切となり、主郭の前後は堀切で独立性を高めている。
全体的に郭の規模も大きく、城内に率い入れる戦闘員も確保できるように居住性に富み、斉藤氏はこの周辺を束ねる有力国人であった事がわかる。

           
 アクセス方法

県道179号線を院庄方面から鏡野町方面に北上すると小田草神社の標識があるので
そちらの道へ右折し5分前後で小田草神社に到達します。
小田草神社より登城道が山上の小田草城まで続いています。




 
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小田草城 登城ルート図

城域     登城ルート

国土地理院数値地図25000(香々美)引用 作図

所在地 岡山県苫田郡鏡野町馬場
形式  連郭式山城
現状  山林、神社
築城年代  14世紀前半
遺構 郭、土塁、掘切、等
主な城主 斉藤近実
見所 堀切、郭
 おすすめ度 ★★★ 
 登城道整備  有
 主郭まで  登城口より20分
 登城難易度 3
 駐車場 小田草神社前に駐車場スペース有り 
訪城日 2008年11月27日 

おすすめ度はが多いほど見ごたえがあり、最高★★★★★まで
登城難易度は数値が多いほど城へ到達する距離、
時間、困難さを示します
数値1~5
上記各種データの説明はコチラをクリック→
上記 データの 説明      

主郭前の堀切
主郭は前後を浅い堀切で遮断し
独立性を高めている


北端の郭
国人の城として比較的に規模が大きく
斉藤氏の勢力の大きさを物語る

 
北端の堀切
北端は2重の堀切で遮断される

南側の郭
南側の郭には休憩所が設けられている

土塁

土塁を盛り上げるなど
技巧的な一面も持ち合わせている
 


小田草神社への参道
小田草神社から登城道が続いている